WEST-MAISON インタビュー (日本語版)

はじめまして!ウェストメゾンと申します。

80年代にビデオゲーム等のメディアに大いにハマり、90年代にゲーム会社にてグラフィックをメインに製作の仕事に就きました。

2000年代後半からは一線から退きましたがゲーム中心にイラストを描いたりグッズを作ったり、コスプレ用の小道具を制作したりと自分の好きな様にやらせて頂いてます。文章だとイマイチ伝えづらいと思いますので、私の遍歴がひと目で解る年表を用意いたしました😆

なお会社にてゲーム開発のお話を語る場合、担当分野外の事は飽くまでも私の主観で話しておりますので、その点はご了承ください。

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②ゲームを好きになったきっかけは何でしょうか?初めてハマったゲームを教えてください。

ビデオゲームにハマるちょっと前にブームになったLSI(ポケット)ゲーム、そしてその決定打は任天堂の「ゲーム&ウオッチ」ですね

LSIゲームでは、当時学校ではインベーダーゲーム禁止令が敷かれていて、スペースインベーダーにはハマれませんでした。その抑制と反動からか、バンダイの「ミサイルインベーダー」を正月に購入し、めちゃめちゃハマりました!更に小型化して登場した「ゲーム&ウオッチ」に魅せられました

特に時計を持っていなかった時代に、時計とゲームが合体してるアイテムが凄い事だとカルチャーショックを受けたんです

③昔住んだ町のゲーセンはどんな感じですか?どのようなゲームが人気か覚えていますか?ゲームセンターに関するハプニングを教えてください。

私が生まれ育ったのは日本の北部、青森県のとある田舎町で、ゲームセンターは80年代のメインがゲーム喫茶・個人経営の中規模ゲーセン・デパートのゲームコーナー・ゲーム会社直営のゲーセンの大まかに4種類に分けられると思います。

ゲーム喫茶はインベーダー喫茶からの流れだと思いますし個人経営のゲーセンも暗い室内でゲームが提供されていた事が多かった為、特に前者2つは不良の溜まり場のレッテルを貼られてしまう事が多かったですね。

今の日本でも後者2つは根強く残ってます。

これは私の故郷に限らずだと思います。大幅に数は減ってしまいましたが😰

人気のゲームは?ですか。80年代のゲーセンだとセガの体感ゲームが特に人気でしたか。

アウトランとかアフターバーナーIIとか。

ゲーセンのハプニングと言えばカツアゲでしょうか?私はカツアゲに遭った事は無いですが、常連さんに1回だけせがまれた事がありました。当然返って来ませんでしたが

④「We’ll Talk」というタイトーのゲームセンターのノートに描いたイラストをSNSでシェアされましたね。あのゲームセンターはどのようなゲームセンターでしたかをおしえてくださいませんか?コミュニティーと雰囲気について教えてください。まだ運営中ですか?

ツイッターに投稿したノートのイラストは、私が移り住んだ富山県のゲーセンのコミュニケーションノートでした。私の故郷のゲーセン(因みにプレイシティキャロット:ナムコ直営店)でも同じ様に展開していました。ですが当時の資料は残っていない為公開出来ないでおります。もしかしたら実家に残っている可能性もあるので発掘出来たらツイッターにて投稿しますね😅

さて、ご質問のウィルトークタイトーですが、ご存知の通りタイトーの直営店。2000年代まで全国展開されていましたが、現在はタイトーステーションに統一され、殆どの店舗は閉店してしまいました。私が常連だったウィルトークタイトー富山中央通り店も90年初頭に閉店しています。

お店の写真はありませんが、偶然すぐ近くで撮影した写真が1枚だけ残っていましたので公開します。写真左奥の辺りにお店がありました。因みにジャンプキックしているのが当時の私ですw😂

お店の雰囲気はとても良く、店員さんのメインは中年のおばさんが1人でした。よく話し相手にもなって、ノートも私の提案で置いて貰ったんです。そこからゲーム好きの仲間が増えたって言う感じでした。

⑤コミュニティーノートは日本のゲームセンターでの一般的なものですが、英語圏には存在しませんでした。このノートについて読者に説明していただけますか?何のために使用されましたか?

やはりゲーセンのコミュニケーションノートの文化は日本独特の物だったんですね!

このコミュニケーションノートは、主にゲーセン内のカウンター等に設置され、お客さんが書き込む為のノートです。お店側で用意される物もあれば、常連さん達が作っていた所も存在していました。

用途は様々で、俺参上!的に来店アピールする書き込みもあれば、常連同士でのコミュニケーションを図ったり、伝言に使ったりと、インターネットが無かった時代の情報ツールとして使用されて来ました。

もしかしたら、なんですが、日本人は直接初対面の人に声を掛けるのが難しいと感じる人が多いので、仲立ちの為にコミュニケーションノートと言う物が生まれたのかも知れないですね。そう言う点では日本人ならではの発想だったかも知れません。

殆どのゲーセンではキャンパスノートが置かれてましたが、私は絵を描くのが得意、と言うか絵を通して好きな事をアピールしたくてノートに絵を描いてました。更にそれだけでは飽き足らず、ノートの表紙にもカラーで自分の描いた絵を貼り付けて作る様になりました。

絵が汚れたり劣化を防ぐ為に、表紙の上からラッピングフィルムを貼っています。そしてこう言った事をしているコミュニケーションノートを他の店舗では見た事が無いです。言うならば、私が発明した様な物でしょうかw😅

(バインダーを使っている店舗もあったそうです)

⑥一番好きなアーケードゲームの三つぐらい教えてください。

私のアーケードゲームベスト3は

❶ドルアーガの塔

RPG黎明期に日本で作られたアクションRPG。第一印象は非常に地味だった事もあり、そこからどんどんのめり込んで行きました。キャラクターデザインを為さった篠崎雄一郎(しのしの)さん(@Shino4know)は今でも神と崇めてます😆

特にSDキャラを描くきっかけになったお一人でもあるんです。

画像は80年代にボールペンで描いた絵と、それに最近CGで着色した物です。

なおこのゲーム、未だにワンコインクリアは出来て無いんです…😅

❷ストリートファイターII

全世界に対戦格闘ゲームブームを巻き起こした、言わずと知れた金字塔ですが、個人的には公私共々さまざまな影響を受けております。

対戦格闘ゲームの製作に携わるきっかけになったのもストIIのお陰でしたし、ケンマスターズの炎の昇竜拳の前にワールドヒーローズでやられた話もあったそうです(ワールドヒーローズパーフェクトで風魔小太郎の「炎龍破」に炎を纏わせたのは私です😆)。

また当時、ウチのカミさんの春麗に私のガイルが全く歯が立たなくて50戦50敗したのも今となっては良い思い出です😅

画像はストIIダッシュ時代にゲームセンター用に描いた対戦台のPOPイラスト。

❸ナイトストライカー

体感ゲームカテゴリとは若干違いますが、非常に印象深いゲームでした。ダライアス等にあったステージ分岐システムやマルチエンディングで何度も遊べましたので🎵

BGMも世界観も大好きでした。

これは前述のウィルトークタイトーにあったコミュニケーションノート用に描いたイラストです。

⑦当時のゲーム雑誌はどのようなものでしたか?GAMEST等に自分の描いたイラストを投稿しましたか?他に有名な雑誌・本(公式か同人誌、なんでもOK)はありましたか?

80年代当時のゲーム雑誌、アーケードゲームの情報はマイコンBASICマガジン・コンプティーク・Beepの三誌がメインでした。但しアーケード専門誌では無くコーナーとして扱っていたので情報量はそんなに多くはありませんでした。

ご存知のゲーメストは80年代終盤に登場した初のアーケードゲーム専門誌でした。

意外と思うかも知れませんが、私はゲーム雑誌にイラストを投稿した事はありません。特に理由はありませんが、何故か投稿その物に興味が無かったんですよね。イラストを描くのは大好きなんですが😅

ゲーム雑誌では無いですが、ナムコさんのPR誌「NG(エヌジー)」が有名でした。私の地元にもナムコ直営店があったので入手しやすく、内容がゲーム情報だけで無く、ドット絵講座やロケーション情報など興味深い記事がたくさん取り扱われていました。個人的にはワルキューレの伝説のキャラクターデザインで有名な冨士宏先生の漫画連載と、一度取り扱われていた造形講座が好きでした♥

⑧プロになる前に同人の作品を作りましたか?(ツイッターでアップしたカードゲームが気になります!)

同人誌サークルとしては活動してませんでしたが、イラストを描いたり色紙を描いたり幟や垂れ幕を描いたり、色々描いてました。

カードゲームは富山のウィルトークタイトーの常連さん達と協力して作った物で、100種あるキャラクターカードはコミュニケーションノートを使ってキャラクターの票を集めて決めました。ゲームシステムやデザインは私が制作し、確か「電幻戦士」と言うタイトルで小ロットの制作した記憶です。

既に私の手元にも資料や原稿、現物が残っていないのでツイッターに投稿したくらいしか資料は無いんです😅

それ以降ですと主に対戦格闘ゲームキャラクターのSDイラストをラミバッジにしてコミケで出展していました。

ラミバッジとは、イラストをラミネート加工して切り取り、安全ピンを付けてバッジにした物で当時の同人グッズの主流の1つでした。お手製で作りやすいのでかなり大量に作れたんです

⑨家庭用ゲーム機・PCのゲームも好きですか?

家庭用ゲーム(コンシューマゲーム)ですとファミコンもハマりましたが、セガマークIII(マスターシステムの前身)に相当ハマりました!

きっかけはファンタジーゾーンの移植版。但しアクションゲームに向かないコントローラが付属されていたので、MSX用のコントローラを代用してプレイしてました。

他に家庭用ゲーム機でよく遊んでいたのはマスターシステム・メガドライブ・スーパーファミコン・ゲームボーイ辺りです。

PCを所有して居なかったのでPCゲームはそんなにやってないです。強いて挙げるなら友人宅で最後までプレイしたメタルギア2(MSX2)とイース(PC-8801)ですね。

PCは所有していませんでしたが、ポケットコンピュータ[ポケコン]を持ってました。プログラム投稿もした事があります。先程のこの表紙のマイコンBASICマガジンに私のゲーム投稿プログラムが掲載されています。

⑩ゲーム業界に入ったきっかけはなんですか?

ゲーム業界に初めて踏み入れたきっかけはゲーセンに貼り紙してあったアルバイト求人でした。それが富山のソフトハウス「風雅システム」でした。

⑪ゲーム業界に入って最初に関わったプロジェクト「Beat Vice」について少し教えていただけますか?

そのアルバイトで関わった風雅システムさんにて私は、PC-9801用のシミュレーションシューティングゲーム「ビートバイス(BeatVice)」のプロジェクトに参加しました。少数精鋭の有限会社で、グラフィックデザイナーは一人か二人くらいしか居なかった記憶です。

(アルバイトのグラフィッカーは私を含め2名)

ビートバイスは、シミュレーションパートとシューティングゲームパートに分かれているゲームで、私はシューティングのグラフィックをメインに製作しました。

戦闘機を報酬で購入するシステムで機体が何種類もあり、

その大半のデザインを製作。

また背景デザインやUI、敵キャラクター等。特にボスキャラクラスの巨大な敵キャラは自社開発のアニメーションツールでグリグリ動かすことが出来ました。

なおゲームタイトルを考案したのも私なんです。

アルバイトなのにここまでやって良いのか?と思いましたw😅

⑫ADKに入社したきっかけはなんでしょうか?

これもゲーメストの求人広告で応募しました。

折角グラフィックデザインの腕を持っているのにそれを活かせないのは勿体無いとも思いまして。

丁度応募した頃がアルファ電子からエーディーケイに社名変更するタイミングでした。

1次選考で作品を応募して、2次選考の面接の時の話なんですが、「採用かどうかは後日お知らせします」と言われ、終わり際に「実はこう言った事もしてまして」とビートバイスの製作資料を提示した所「…それでは採用で話を進めて行きます」

…ここだけの話ですよw

⑬ADKとSNKの関係はどのような感じでしたか?

アルファ電子時代にも様々なメーカーさんとタイアップしてたそうで、特にNEOGEO開発に深く関わっていた為SNKさんとは密接な関係だった様です。ですので一時期SNKさんの子会社なのかとも思った事もありました😅

詳しくは分かりませんが、晩年の関係はそれ程良好では無くなってしまったそうです。

⑭ADKのゲームによく忍者が登場する理由はなんですか?

アーケードゲームは海外でリリースも視野に入れている為、海外で通用するゲームを要求されます。グラフィックが日本の2次元アニメ絵よりも濃厚でリアル寄りな絵柄や色付けされている理由はそこにあるんです。

何処かでコメントが公表されていたと思いますが、海外に於いて忍者はスーパーヒーロー…いやヒーローでは無くてダークヒーローだなぁ。超人のイメージが強いらしく、高いビルもひとっ飛びとか、音も立てずに高速で走れるとか、ニンジャは豆腐しか食べないとかw

そんなメジャーで強いイメージのニンジャを使わない手は無いと言う事で、ADKではニンジャを起用する事が多いんだそうです!

⑮ADKで最初に関わったゲームはなんですか?

社内研修を経て初めに関わったのはワールドヒーローズ2JETでした。

私を含め新人は何人かおりましたが、他のメンバーは痛快GANGAN行進曲[Aggressors of Dark Kombat]の開発に、私だけが2JETの開発に回されました。

主にキャラクターの追加グラフィックを担当。ジャンヌのファイヤーバードはこの時に私が製作しました。その後GANGAN行進曲の開発と合流しました。

⑯NEO GEOでのゲーム開発はどうでしたか?どのようなハード・ソフトで絵を描きましたか?

開発ツールはX68000の自社開発グラフィックツールで、感覚的には風雅システムの時と同じような感覚で使用してました。どちらも使い勝手が良かったと記憶しています。

⑰WORLD HEROESでの仕事はどうでしたか?キャラクターデザインに携わりましたか?(また、公式のWORLD HEROESのイラストのなか、どちらを描きましたか?)

ワールドヒーローズに限らず、キャラクターの元デザインを担当するデザイナーさんが存在します。私はNEOGEO開発のゲームではキャラクターデザインを担当する事はありませんでした。

ですが既存でもキャラクターに技やエフェクト等を追加して魅力を引き出す事に大いにやり甲斐を感じました。

特にハンゾウに追加した勝ちポーズはお気に入りです!

ワールドヒーローズパーフェクトに於いてラスプーチンの秘密の花園やマッドマンのヘブンズブロスを見て狂喜するプレイヤーさんやギャラリーで盛り上がる話をSNSでも見かけると、やって良かったと思いました。

公式イラストは、当時の広報担当者がメインに制作していました。2JETからは漫画家・イラストレーターのるりあ046氏を起用。

私はワールドヒーローズ2のゲーメスト記事用に2Pカラーイラストの一部(ハンゾウ・ドラゴン・マッスルパワー・ブロッケン・キャプテンキッド)と、アザーカットのイラストを描きました。またサイトロンのCDやビデオのパッケージイラストも描いています。

ADK公式同人誌やセガサターン版パーフェクト等の4コマ漫画も一部描いてましたね

⑱WORLD HEROES2の開発での楽しい思い出はありますか?

参加プロジェクトはワールドヒーローズ2JETからなので、ワールドヒーローズ2に関しては前述のイラスト制作のみでした。

2JETで言えばリョフ(呂布奉先)のサブデザイナーとして、またリョフのボイス担当として参加。リョフの声は掛け声しかありませんでしたが、ワールドヒーローズパーフェクトでやっと台詞が貰えました。「灰になれぇ!」と「ぐゎっはっは、受けてみろォ!」の2つだけでしたがw😅

またジャンヌのファイヤーバード等でエフェクトの手腕を見出されたのか、パーフェクトではキャラクターをメインに全体のエフェクトグラフィック担当を任されました。

元々動物を描くのが好きだったので、キャプテンキッドの「シャークナックル」やエリックの「ホエールヘブリング」等を描くのは楽しかった思い出です。

⑲痛快GANGAN行進曲の開発での楽しい思い出はありますか?少し変なゲームとして知られていますが、開発はどうでしたか?

確かにヘンな世界観のゲームでしたねw

当時のプロデューサーさんも変わった人でした。多くは語れませんが😅

ここではキャラクターの一人、城所剛のサブデザイナーとして参加しました。いわゆる「バンカラ」と呼ばれる風貌で、リーゼントに下駄、サラシを巻いた学ラン姿が特徴でしたね。

画像の鉛筆絵は、コミュニケーションノートに描いた非公式の剛です

因みに苗字の「城所(きどころ)」で「ジョジョ」って呼ばせたかった様ですヨ😁

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ご存知かも知れませんが、痛快GANGAN行進曲の海外タイトルの「Aggressors of Dark kombat」は頭文字でADKとなります

⑳NINJA MASTER’Sのアイデアはどこから来ましたか?ウェストメゾンさんも開発に参加しましたか?

ADKの代名詞である忍者キャラクターの格闘ゲームの企画に参加しました。ワールドヒーローズは格闘メインだったので、サムライスピリッツの様な剣戟格闘ゲームをリリースしたかった様ですね

全員がニンジャでは無く様々なスタイルのキャラクターが居るのも魅力なのでしょうね。

私は退魔師の「鳳凰」を担当しました。

㉑NINJA MASTER’Sのスタッフロールの最後に”Team Jigocky”のマークがあるんですが、”Team Jigocky”とは何でしょうか?

これですね?w

当時のニンジャマスターズのプロジェクトチーム名ですね。

SNKさんもよくプロジェクトチーム名をエンディングに表示させる事があった様で、おそらくそれに倣ったのかも知れません。因みにJigockyは「地獄のモンキー」かもです。「シゴキ」と掛けてるのかも知れませんがw😅

㉒Ninja Master’sのリリースの時はネオジオの黄金時代の終わりといえるかもしれません。ADKは他のハードでのプロジェクト(例えば、Hyper Neo Geo 64)を検討しましたか?

ハイパーネオジオ64のプロジェクトは検討してたみたいですが、開発力や資金の問題等で進める事が困難だった様です。

その辺りからSNKさんとの折り合いが悪かったのかも知れないですね。

飽くまでも所感なので真偽は定かではございませんので悪しからず。

㉓ADKでは他のゲームやプロジェクトにかかわりましたか?

他では類を見ないジャンル、対戦シューティングゲームのティンクルスタースプライツの開発に関わりました。

グラフィックの一部を手掛けましたが、当初このゲームのシステムにアドバイスして、連爆等の独特のシステムが生まれました。

またNEOGEO以外の製作では、社長の企画の元で液晶携帯ゲーム機の開発を担当しました。

当時は空前のたまごっちブームであり、低予算でヒット商品を模索していた模様です。

元々ゲーム&ウオッチ世代でしたし、小型ゲーム機が大好きでしたので喜んで企画に参加してました。

ゲーム機とは少し違いますが、カロリー計算が出来る歩数計「ポケットエステ」や2匹の生物をペットにして交配も可能なたまごっちの亜流商品「新種発見!なんじゃもんじゃ」等、幾つかの携帯ゲーム機の開発に従事しました。

㉔ウェストメゾンさんはADKの最後までずっと働いていましたか?ADKの最後はどうでしたか?

次の項目のゲーム開発を最後に退社しました。

実はこの頃、社長から別会社の立ち上げでオファーがありましたが、お断りさせて頂いたのです。

ですのでそれ以降のADKは存じ上げておりません。

㉕ADKの後、ウェストメゾンさんは色んな携帯機のゲームのキャラクターデザインをされていましたね。どのような仕事か、教えていただけますか?

公には出ていませんが、私が唯一企画・デザイン・開発した商品である「ダンジョンクエスト」はADKでの仕事でした。少ないドットマトリクスでの限界に挑戦する為に実験段階から水面下で開発を進めていて、形が見えてきた所で社長にプレゼンして正式開発に移行しました。

但し自社では販売する事が出来なかった為に、当時の担当営業さんにとことん営業して頂き、最終的にオファーを頂いたのがコナミさんだったんです。

ダンジョンクエストについて解説しますと、携帯ゲーム機版ローグと言ったら分かりやすいですね。

日本で言うとトルネコの大冒険等の不思議のダンジョンシリーズに近いゲーム性です。全部で6種のシリーズ展開で、5人の主人公、全180体前後のモンスター、180種のマップ(ランダム生成マップでは無い)を製作しました。

独自のシステムでは、モンスターを仲間にして敵を攻撃させられたり、接触通信を使って他のダンジョンクエストとアイテムやモンスターをランダム交換出来るシステムを搭載しています。

元々シリーズ化は考えていましたが、コナミさんからは第6弾まで発売させて頂いた上に、スピンオフとしてモンスターを収集育成してバトルが出来る「ダンジョンクエスト マザーベース」の発案を頂きました。

こちらの開発のメイン担当者は別の方ですが、私はタイトルロゴと筐体デザイン作成を担当していました。

㉖いつごろにコナミに入社しましたか?コナミでどのような仕事しましたか?

ADK退社後、およそ半年でコナミに入社しました。

初めはビーマニポケットのパッケージデザイン製作あたりを手掛け、キッズメダル機の開発、トイ&ホビーの商品開発、ポップンミュージック等のゲームグッズ開発に関わりました。私は当時CP事業部と言う部署に所属していて、主にキャラクターグッズやその他のゲームの類を扱う事業でした。アーケードゲームに直接絡む事は無かったですね。

㉗コナミでBeast Shooterというおもちゃの開発をされていましたね。どのような仕事でしたか?おもちゃとゲームの仕事は何が違いますか?

ビーストシューターは日本で70年代後半にブームになったスーパーカー消しゴムのリバイバル商品として企画されました。

当時のカプセル玩具、通称ガチャガチャで初期のヒット商品がスーパーカー消しゴムでした。80年代になるとキン肉マン消しゴム(キン消し)が流行ったりしましたが、スーパーカー消しゴムは指やノック式ボールペン等で飛ばして遊ぶ独特の遊び方が浸透し、瞬く間に全国に広まりました。

ビーストシューターは消しゴムでは無くPVC製のフィギュアにローラーやベアリングが付いたユニットを装着して飛ばす(転がす)玩具でした。

レースの他に直接ぶつけて場外に落としたりカードゲームの様にカードで効果を発動させ戦わせる等様々な遊び方を提供しました。

私はキャラクターユニットデザインやシューターのデザイン、カードゲーム用カードイラスト製作、競技用ボードのデザイン等を手掛けました。

元々SDキャラクターを描いていたので、下半身が安定するユニットの整合性に非常にマッチしていました。

またシリーズを追うごとに、変形したりパーツの組み換え合体が出来るまでになりました。

30体以上のユニットデザインを手掛けましたが、お気に入りは第1弾のギアファルク、ゼノゾード辺りがシンプルで好きです。

そしてコラボ商品としてゴジラバージョンやボンバーマンジェッターズのバージョンも発売され、そちらもビーストシューター用に再度デザインしました。

玩具製作とゲーム製作の大きな違いは、ゲームはプログラムでキャラクター等を制御してプレイヤーに遊びを提供する方法に対して、今回の玩具に関してはトレーディングカードゲームに近い物があると思います。

因みに遊戯王カードゲームを製作している部署は同じ事業部内にありました。

ただゲーム画面では無いリアルで遊ぶ玩具には、色々なハプニングがあってそれもまた面白味がありましたね。

㉘ぬいぐるみとコスプレアイテムも作っていますね。作り始めたきっかけは何ですか?作った作品の中で、特に好きなものはありますか?

コスプレアイテム(小道具)を作るきっかけとなったのは娘のコスプレでした。

私は娘が1人おり、小さい頃からコスプレ環境の中で育ちました。娘の初のコスプレは1歳の時で鉄拳2のシャオユウ(凌暁雨)。その後も次々に新しいコスプレをする様になり、そこから10年もの間に優に100着を超えるコスプレを熟してました。

母親が衣装を作り私が小道具を作って娘がコスプレパフォーマンスをする、と言った三角関係が出来上がってました。

格闘ゲームのキャラクターはあまり小道具を使う事が無いですが、独特な武器やコスチュームを纏ったキャラクターが集う格闘ゲーム「ギルティギア」シリーズで、可愛らしい女装をしたいわゆる「男の娘」のブリジットがブレイクして、勿論娘もコスプレしましたが外部からの注文が殺到し、こちらもヨーヨーや手錠パーツ等3桁を超える数をこの10年で作っていました。

タレントの中川翔子さんやコスプレタレントのえなこさんも使用しています。

昨年はアイドルさんのMV用の小道具制作依頼を受ける等、制作の幅が広がりました。写真はわ〜すた(World Standard)さんに提供した小道具。

そしてコスプレ小道具を作る技術を応用して何か作れないかと模索して、モンスターハンターワールドのアイルーを作り上げました。これはぬいぐるみでは無く、どちらかと言うとフィギュアに近い作り物になるのです。おそらくこの様な作り方をしているのは他では無いと思われます。

そして現在アイルーの2体目を制作中です。

㉙ここ数十年の間、クリエーターとしてもファンとしてもゲーム業界を見守ってきたそうですが、日本のゲーム業界はここ数十年でどう変わりましたか?

コナミさんを退社後は、ゲーム業界から久しく離れておりますが、ゲームの環境が一番大きく変わったのはスマートフォンの登場でしょう。

初めて日本で発売されたのは15年程前になるでしょうか。

ここで初めてお話ししますが、業界を離れてもやはりゲームを作りたくて、目を付けたのが携帯電話でした。

当時ガラケー(日本のセルラーフォン)用のゲームも幾つかリリースされていましたが、その多くは専門学校の学生に作らせている話と聞いた事がありました。そこで携帯電話の勉強の為に携帯電話業界に身を投じたのですが…只の販売業に飛び込んでしまったのが運の尽きでしたw

そして自分の予想以上にスマートフォンが世間に浸透し、日本でもテレビを点ければスマホゲームアプリのCMが四六時中流れています。

お気づきでしょうが、スマートフォンのゲームアプリの隆盛の裏でアーケードゲームもゲームセンターも衰退して行った要因の1つになってしまっていると思ってます。

㉚ファン活動(同人誌・コスプレ等)はここ数十年でどう変わりましたか?

同人誌業界は、ゲーム同人に限って言えばやはり一時期の隆盛からはぐっと落ち着いて来てますかね。

コスプレはこの数十年で本当にレベルが上がりました!

日本でも専門の業者が増えたりクールジャパンを謳って環境が整ってきた事もその一例だと思います。

㉛今のところ、他の好きなゲームはありますか?

ここ十数年の間ではモンスターハンターシリーズにハマっています。海外ではイマイチ受けが良くない様ですが、特に武器種のライトボウガンにハマっていてどれだけ強くなれるかを試してました。

こちらも同人ファンアートを数多く制作していて、コミケ出展もしています。その時の看板を部屋に飾ってたりもしています

㉜他にコメントがあればお願いします。

この度は沢山のインタビューありがとうございます!

ほぼほぼ私の人生録になってますが、実はまだまだ語りたい事が山程ありますので、また機会がありましたらいずれお話したいと思います。

今回のこの機会に、海外の方々に私のゲームに関わったクリエイティブな部分を伝えられれば大変光栄です。

そして夢としては、沢山の人達にメモリアルファンアート等を提供したいとも思ってます。それはイラストでもフィギュアでも色々表現が可能で、私は常に挑戦しています。

現在は多言語が話せる力が無くても、優秀な翻訳アプリもあるので、使い方次第で多民族同士でもコミュニケーションの幅が広がり、そしてその距離もぐっと縮まりました。

私はツイッターを始めてから1年くらいしか経って居ないのですが、SNSの可能性を模索しながら様々なチャレンジを続けて行きたいと思ってます。

ご質問やご感想は私のSNSにも頂けると大変嬉しいです。

またオールドゲームに限らずですが、ファンアートをご希望の方はコミッションもお勧めしておりますので、そちらもご相談ください😆

それでは!